オーストラリアに駐在していたころ、基本的には住みやすい場所だと感じてました。
住んでいたシドニーは気候も穏やかで、特に夏は晴れの日も多く、ビーチなどの自然にも恵まれており、子供たちを含む家族も大いに生活を満喫してました。
一方、時折耳にする微妙な話題に、第二次世界大戦中の話があります。
当然ですが、日本はドイツ・イタリアとの同盟国、オーストラリアは、アメリカやイギリスを中心とする連合国(United Nations)で、壮絶な戦いを行ったわけです。
日本の歴史教科書で学ぶ太平洋での壮絶な戦いは、ほぼアメリカとの戦闘についてです。
真珠湾からはじまり、ミッドウェー海戦、その後の南太平洋上での戦いでは、主にアメリカ軍との戦いとして記載されております。
しかしながら、連合国の一員であったオーストラリアとのバトルがあったことは、どれだけの人が知っているでしょうか?
ダーウィン出張時
第二次大戦での日本軍との戦いの記憶がよく残っている地域があります。
それはオーストラリアの北端部分に位置する、ダーウィンです。
ある天然ガスプロジェクトに関連する仕事があり、出張で初めて訪れたときに、戦争の記憶を知ることになります。
ダーウィンは、オーストラリアで唯一外国から空爆を受けた場所です。当然空爆を行ったのは日本軍です。
連合国の基地をもっていたダーウィンを戦略上攻撃することは当然といえば当然なのですが、現地に住む人にとっては衝撃的な記憶として残っており、ご年配の方々の中には、日本に対する微妙な思いを抱き続けている方もいらっしゃることを感じました。
1942年2月19日に、日本軍の大空襲を仕掛け、ダーウィンの空港は完全に破壊されたのです。
停泊中の艦船も沈められ、病院などの施設も被害をうけて、多くの人が命を失ったのです。
ポート・ダーウィンは、アメリカ人にとってのパールハーバー、日本人にとっての広島・長崎と並ぶ、悲惨な戦争を象徴する言葉となっております。
戦争捕虜収容所
戦争中にオーストラリアで捕虜になった兵隊たちは、シドニーなどが位置する東海岸のニューサウスウェルス州の捕虜収容所に収容されておりました。
カウラという小さな田舎町にあるこの捕虜収容所で、終戦から1年前の1944年に大事件が勃発します。
収容所の日本人捕虜が、大暴動を起こして、多数の死者が出たのです。
書籍「カウラの突撃ラッパ」は、なぜこのような暴動が起きたのか、その首謀者はだれであったのかを、丹念な調査を行いながら解き明かしていきます。(残念ながらこの本はもう絶版になっているそうです。)
捕虜として暮らしていれば、おそらく戦後も生き延びていたであろう捕虜たちが、どうして無謀な行動を起こしたのか?
その当時の日本の軍人に叩き込まれていた「虜囚として辱めをうけず」だけでない、いろいろな要素が絡んだ結果だとしています。
小さな片田舎での出来事は今でも鮮明に語り継がれており、2月(オーストラリアでは夏)には、今でも両国関係者が集まり、追悼の式典が行われております。
自分自身も、シドニーから車を何時間も運転して、現場を訪問しました。
今となっては平和極まりないのどかな風景だけが広がっており、そのような参事が起きたなどとは想像できないほどでした。
アジア・オセアニア地域
戦後80年近くが経った今では、戦争自体の事実が風化してきています。
しかしながら、このグローバルの時代で、日本人も海外で活躍する場が多い中、アジア・オセアニア地域で何があったのかを少なくとも知っておくことが大事だと思いました。
特に、駐在などで暮らすようなことがあるのであれば、しっかりした知識とそれに対する見解を持つ必要があると強く感じました。
コメント